

高萩の海岸線は、約7キロメートル。この中に広い砂浜を持つ海水浴場をはじめ、気軽に磯遊びのできる岩場、切り立った海食崖など気軽に海岸の持つ豊かな自然を楽しむことができます。 また、太公望には絶好の釣りのポイントが、各所にあります。
切り立った海食崖に挟まれた二つの入り江を持つ景勝地で、「日本の渚・百選」の一つに選ばれています。
空と海の青、海食崖の上を覆う松の緑、そして砂浜の白さがコントラストに映えて輝きます。夏季は磯遊びの家族連れで賑わいます。

「遠妻し 高にありせば 知らずとも 手綱の浜の 尋ね来なまし」
と万葉集に詠まれた「手綱(たづな)の浜」は、この海岸付近だと言われています。
ここからは南に切り立った海食崖が、北には弓なりに遠くまで伸びる海岸の景観に出会うことができます。

真っ白い砂と遠浅の海岸で有名な高萩海水浴場.常磐自動車道高萩ICから車で約10分という立地条件にも恵まれ、夏季には、県内外から家族連れなど大勢の海水浴客で賑わいます。

高戸の山とささき浜の断崖の間にあって小さな入江をつくる小浜海岸。中央に明神山と坊主山という二つの岩山が島のようにそびえ、砂浜を二つに分けています。優れたこの景観は、文化年間に作られた『松岡八景』に「高戸の帰帆」として選定されています。
明治30年の鉄道が開通する以前は船着場として利用され、石炭や木材などがここから那珂湊や銚子港まで船で運ばれていました。宝永4年(1707年)に水戸藩附家老で松岡領主の中山信敏が、常陸太田に知行替えになったときに、松岡城の建物を解体して、この浜から久慈浜へ積み出したことは良く知られています。また、年貢米の積み出しの記録もあり、久方蘭渓の『松岡郡鑑』によると宝暦13年(1763年)の回船数は11隻で磯原や大津よりも多かったと記録されています。
さらに、海鵜の捕獲も昭和初年まで続けられ、今も明神山の海側の断崖に岩棚が崩れた洞窟が残っています。このほか、終戦後の一時期は製塩も行われていました。
○参考文献 『高萩の歴史散歩』(平成10年) 高萩市郷土研究会編
高戸地区にある高萩霊園内の四阿(あずまや)の隣に万葉集の「手綱(たづな)の浜の歌」の歌碑が建っています。これは高萩市文化協会の25周年記念事業として建立したもので、揮亳は当時の文化協会長の笠谷喜之助氏によるものです。
「遠妻し 高にありせば 知らずとも
手綱の浜の 尋ね来なまし」
というこの歌の意味は、「遠くにいる妻が、せめてこの多珂の里の付近にでもいたならば、道はよく知らなくても手綱ノ浜で尋ねて来ようものを」(折口信夫訳)となります。
「手綱ノ浜」というちょっと変わった固有名詞が、尋ねるという意味に重なるところが面白い歌とされています。
また、この歌碑のすぐ下からは、万葉の道が伸びています。海を見下ろす崖の上を歩くこの道は約1キロメートル。途中の開けた場所からは、砂浜が弓状に伸びるささき浜とその向こうに北茨城市の海岸を望むことができます。


